日の光ひとつ差し込まない、漆黒の階下。
幾段にも及ぶ階段を降りていくと、そこには重厚な扉があった。
華やかな館の外観からは想像もつかない地下の一室には、
その館の主しか立ち入る事の出来ない秘密の部屋が存在していた。
殷姫の死後、塔天はその万能ともいえる知識を駆使し、
天界の貴族である李家に養子入りすることに成功した。
俗にいう婿養子という立場だ。
その立場を巧妙に利用し、心の奥深くに復讐の炎を灯しながらも
表向きは天帝の秘書官という地位まで伸し上っていった。
塔天は結婚した李家の姫君のことなど、微塵も愛してなどいなかった。
形だけの婚姻をあげ、その挙句に莫大な財産のみ利用したのだ。
そして塔天は、自らの手で得た城の地下室で、
狂気じみたある実験を繰り返していた。
部屋の中央に置かれた巨大な水槽。
水槽の中には、禍々しい真紅の液体が張り詰められている。
張り巡らされたカーテンの向こうには、無数の死体が
モルモットの如く薬液漬けにされ、鼻をつく異臭を放っていた。
塔天は夜な夜なその密室に脚を運んでは、
血液が張り巡らされた水槽を愛おしげに見つめる。
そこには、今は亡き姫の胎内から取り出したモノが、
その原型を留めぬまま、妖しげに姿を漂わせていた。
「……我が愛しの子……ナタクよ……
今こそ我らがこの世を支配する時代。
憎くき奴らに、我らが痛みを知らしめる時が到来したのだ……」
塔天の行動を不振に思っていた李夫人は、
こっそりと後をつけ、立ち入ってはいけないと言われていた地下室へと
その足を踏み入れていた。
もとより家の事情で婚姻を挙げた相手とはいえ、
彼女は心から彼を嫌っていたわけではなかった。
というより、むしろ出来る事ならば本当の夫婦になりたいと望んでいた。
そう思える相手だからこそ、その行動が気になるのはあたりまえのことで、
縦しんば夫の行動を見極めて、秘密を共有できる相手になりたいと願っていた。
だが、秘密の地下室で行われていた塔天の行動は、
彼女の理解の到底及ばない次元まできていた。
今まで見たことのない狂気の笑みを浮かべながら、塔天が手にし抱きかかえていたもの。
それは赤子というよりは肉塊に等しい、醜い泣き声を放つ化け物だった。
「い、いやぁぁぁぁ……!!」
次の瞬間、婦人は気が触れ己を失う。
その姿を目にした塔天は、愉快そうに唇の端を吊り上げた。
「……さぁ、ナタクよ……今こそ、その姿を蘇らせる時だ……」
塔天は己の力で永い年月、胎児の姿を封じ込めていた。
なぜならば、その子の存在は鏡の力を露呈するものに他ならない。
天帝がもうひとつの鏡の存在を忘れ、自分の陰謀に気づかなくなるまでの時間が要った。
己自身の姿も変えた。
誰もが殷姫と自分の関係を気づけなくなるように、
ありとあらゆる手を尽くした。
だが殷姫が残した忘れ形見だけは、
どう手を加えても彼女にうりふたつになってしまう。
他人の身体を切り刻み、我が子に授けてみたところで、
再生が進めばそれはまたもとの姿と同じ、麗しき姫君の面影を漂わせてしまうのだ。
美しき少年の姿になった我が子は、
塔天の哀愁を呼び起こすには充分すぎる存在だった。
心はそれを疎む一方で、底知れない愛欲を彷彿とさせた。
塔天はその愛しき我が子にナタクと名づけ、
己の知識と愛情の全てを注ぎ込んだのだった。
そしてここに、李塔天の愛しき人形……闘神太子ナタクが誕生した。
ナタクの美貌は死人のように冷淡で、人形のように不変だった。
天女の如く麗しく、瞳は宝石を埋め込んだように光り輝いていた。
しかし、その見た目とは裏腹に、彼の持つ神通力は強大な威力を発揮した。
それは殷姫の魂の欠片が成せる技でもあったが、
天帝はそんな理由も知らずに、その美しさと強さに惚れ込んだ。
天界の神々の間でも、唯一殺生を許される闘神は、
不浄のものとしてその存在を忌み嫌われた。
それ故、何人も自ら志願するものはなかった。
だが、李塔天だけは違っていた。
表向きの天帝への忠誠心を披露するため、彼は我が息子ナタクを闘神にさせたいと
自ら志願したのだ。
李塔天の思惑通り、全ての事は運んでいた。
そう……ナタクが金色の瞳を持つ少年……悟空に出会うまでは……
今日も李塔天が命じるまま、ナタクは下界での妖怪討伐に向かった。
そして、自分が殺した多数の妖怪の血にまみれて帰ってきた。
絹のごとき肌は真紅の血に染まり、至る所に生々しい傷跡が残っていた。
「おお……ナタクよ……
こんなに傷ついてしまって……可哀相に……」
愛しい我が子の衣を脱がせ、その姿態を見つめては目を細める。
ナタクを見つめる瞳からは、その異質な愛情の欠片が見て取れた。
「すぐに治してあげよう。痛みなんてすぐに消えるから安心しなさい……」
「……はい……父上……」
「もう、明日からでもまた戦えるよ?
戦って、戦って、どんどん天帝の信頼を集めなさい。
そして将来、あの椅子に座るのはこの私……
私の後を告ぐのは……ナタク……お前だ……
それまで何度でも、この身体を作り変えてあげよう。
代わりの身体など、いくらでも手に入るのだから……」
「……はい……父上……」
無機質な瞳は、心の在り処を見失っていた。
父親が自分に向ける執拗な愛情……
それが恐ろしくもあり、また愛しくもある。
逃げ出したいと思いながらも、逃げ出す術をナタクは知らずにいた。